蕪村通り商店街(大阪市都島区)

蕪村通り商店街のアーチ看板
東側の入口アーチ(2019年10月撮影)

商店街の東西の入り口に緑を基調とした同じデザインのアーチが一本ずつ設置されている。

与謝蕪村の生誕の地

「蕪村」とはもちろん俳人「与謝蕪村」のこと。

蕪村は江戸時代中期の1716年に商店街に近い摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)に生まれた。

看板の右下に小さく書かれているように、ここはかつては町の名前を冠した「大東商店会」だったが、2007年2月に蕪村にあやかって改名し「蕪村通り商店街」となった。

商店街と駅

長らく電車駅から離れた商店街であったが、2019年にJRおおさか東線の開通により、「城北公園通駅」が完成。商店街東側の入口から50mの位置に駅ができることとなった。

「長らく」というも実はこの商店街の近くには、かつて大阪市中に張り巡らされていた大阪市電(路面電車)が通っていた。

モータリゼーションや交通渋滞の悪化によって昭和44年(1969年)に廃止となり、以降電車とは疎遠な時代が続いていたがそれから50年、再び駅チカ商店街となったわけである。

蕪村通り商店街のアーチ看板
西側のアーチ(2019年10月撮影)

コメント

  1. [ より:

    蕪村は、隣町の毛馬村で生まれたとされる尊敬される俳人です。隣町にあやかりたいと考えた前々会長が会員に無断で、ある日突然会員に黙って商店街のお金を使ってアーチを書き換えました(会員に反対されるのを恐れて独断で実行)。その、緑地に赤字の看板は、「赤字の商店街」として嘲笑の種になっていました。そして、文字通り商店街は衰退の一途をたどりました。会費を使い切る運営を続けられて看板を元に戻すお金もありません。いつか大東商店街に戻りたい一心で、会員は悶々としながらも15年間会費を払って耐え続けてきました。
    令和2年4月、前会長の補助金詐欺がきっかけで役員交代となりました。新役員による全会員への悉皆調査を経て、(当然ですが)圧倒的多数で大東商店街への名称復帰となりました。改名されて10数年たってもなお大東商店街に戻ることは会員の悲願だったのです。
    前役員や地域の既得権益があった人間たちは、大東商店街の運営を様々な形で妨害しました。商店街は地域から補助金や援助は一切貰ってはいませんが、地域からの圧力もかけられ嫌がらせや侮辱を受けました。「商店街の名前は商店街会員が決める」という強い信念のもと、商店街会員達は動じませんでした。
    いま、会員は堂々と大東商店街を名乗り、大東商店街の看板アーチを誇らしく眺めています。

    • しゃけ より:

      情報ありがとうございます。以前私が訪問したのは2019年でしたが、それから名前が戻ってアーチも変わっていたのですね。近いうちにアーチを見にまた訪問したいと思います。

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